重犯罪を犯したある青年の魂の叫び

人間というものをdoing(行為) とbeing(存在)の2つの面からとらえる考え方があります。

doingとは文字通り、「行為」のことをさします。
例を挙げますと、学校のテストの点数や順位、学歴や資格、社会的地位、積み上げてきた財産・年収、積み重ねてきた経験や、実績、身につけたスキルなどなど。容姿などもこれに含まれます。
何かが出来る出来ないで価値をはかる、他者との比較の世界です。

一方、beingとはその人の「存在」そのものをさします。
何かが出来る出来ない関係なく、ただそこにいるだけで、その人をその人たらしめている何か、それがbeingです。

doingは比較の世界ですから、どこまで行っても終わりがありません。
もし、仮に何かの分野で世界で一番になったとします。
しかし、今度はその世界一の地位を保ち続けるために頑張る必要があります。
私達現代人はdoingではかられ続け、疲れきっています。
もちろんdoingも大事です。それも間違いのない事実。
しかし、doingのみで自分の価値をはかってしまうと、永遠に安らぎが得られないことになってしまいます。

幼い頃から、社会的にはエリートの両親から、教育の名のもとに壮絶な虐待を受けてきた方がおられました。
彼は、それに耐えかね、中学卒業と同時に家を飛び出します。
そして、悪い仲間とつるみ、あらゆる手段を使って数年間生き延びてきました。
しかし、いかんとも進退窮まり、20歳の時一度実家に戻る決心をします。 確かに酷い虐待をしてきた親ですが、「そうは言っても血のつながった親子 だ・・・。」と、まだどこかで自分を受け入れてくれるだろうという期待感があ りました。
しかし、ボロボロな状態で帰宅した彼に親がかけたセリフは、

「何しに帰ってきた!」
「お前はうちの恥さらしだ!お前のせいで俺達がどれだけ恥ずかしいおもいをしてるのかわかっているのか!!」
「こっちは忙しいんだ!お前の泣き言なぞ聞いている余裕なんてない。自業自得だ!」

この時、彼の中で何かがキレてしまいます。
彼は、彼の親達に対し重犯罪にあたる行為を実行し、刑務所に収監されることになってしまいました。
しかしもし帰宅した彼に、ほんの少しでも彼をいたわる言葉、彼の存在自体(being)を受け止める言葉をかけられていたら、こうした結果にはならなかったかもしれません。

しかし、親御さんもこれまでの人生でdoingでしかはかられてこなかったため、子供のbeingを受け止めるという意味がどうしてもわからなかったのかもしれません・・・。